モナ・レノン

モナ・レノン
モナ・レノン(2003年研修先のリヴァプールにて撮影)

2022年10月20日木曜日

劇評:NODA・MAP 第25回公演 『Q:A Night at the Kabuki』

 NODAMAP 25回公演 『QA Night at the Kabuki@大阪新歌舞伎座

「ロミジュリ×クイーン」で今日的なテーマに迫る(完全ネタバレ)


   2019
年初演時の印象が塗り替えられるほどに、今回の再演はブラッシュアップされていた。『ロミオとジュリエット』の悲恋をベースに、舞台を源平の争いに置き換え、クイーンのアルバム A Night at the Operaを絡ませ、『ロミオとジュリエット』を越える今日的なテーマが提示される。
 

●空間・時間を越える仕掛け

 どのようにしてそれがなされているのか。まずは、仕掛けをみていこう。キャピュレット家とモンタギュー家の対立は、源氏と平氏の対立に置き換えられる。平氏が全盛の時代で、平氏は「欲を成し財をなし名を成すぞ!」をスローガンとし、自由な消費を謳歌する、きらびやかな陣営だ。対立する源氏は「欲を捨て財を捨て名を捨てろ!」と、質素で規律正しい生活を美徳とする陣営と性格づけられている。

 もうひとつの仕掛けは、ロミオ(平の瑯壬生(ろうみお))とジュリエット(源の愁里愛(じゅりえ))が死なないで生きていたらという仮想の人物、「それからの瑯壬生」と「それからの愁里愛」を登場させているということだ。劇中ではそれぞれ「まさかの友」と「まさかの乳母」と呼ばれる。若い瑯壬生と愁里愛が鮮やかな衣装をまとうのに対し、「それからの瑯壬生」と「それからの愁里愛はグレーの衣装をまとい、若い二人の悲劇の運命を止めようと働きかける。しかし、若い二人がボタンの掛け違いにより自ら命を絶ってしまった後は、若い二人は「瑯壬生の面影」「愁里愛の面影」としてグレーの衣装をまとい、「それからの瑯壬生」と「それからの愁里愛」はグレーの衣装の上に、色彩のある衣装をつける。

●絡み合う二つのテーマ

 以上のような仕掛けを施したうえで、どのようなテーマが提示されるのか。        

 ひとつは、有名性と無名性の対立を軸とした、社会のなかの個人のあり方だ。ゴージャスな平氏と質素な源氏という対立のなかでも、とりわけ強調されているのが有名性と無名性の対立である。清盛は「平家、平家の名を拾え、拾え拾えの拾イズムだ!」と有名なヒーローであることを誇り、清盛体制に抗議する源氏の無名の民衆は「名を捨てロリスト」と呼ばれる。「名を捨てロリスト」のリーダー、源義仲は「われら名を捨てロリストたちは、名前を捨てる代わりに、『匿名』という名前を手に入れるだろう」と語り、スクリーンにニコニコ動画の弾幕のように、「清盛ウザイ」「死ね清盛」などの「匿名」の書き込みが提示される。

 ここで注意しなければならないのは、無名性は多義的だし、単純に善悪で割り切れるものではないということだ。権力は民衆を代替可能なコマ(兵士)として動員し、犠牲者を「無名兵士」の墓に葬る。無名の民衆は「匿名」という武器により権力に対抗する。若き愁里愛は瑯壬生へ両陣営の対立から逃れたいがゆえに「あなたの名前を捨ててください」と言う。

 最後の場面で、「それからの瑯壬生」から「それからの愁里愛」に宛てられた手紙が読まれる。「私を名もない兵士として葬らないでください。……もう二度と私に『名前をお捨てになって』などとおっしゃらないでください。……一人の名前のある人間として、ここで死なせてください。……」と書かれている。「名前のある人間」とは有名なヒーローではない。一人の人間として尊重される存在ということだ。若き愁里愛の「名前を捨ててください」の意図は、「名を捨てロリスト」になってほしいという意味でも、無名の戦士として戦ってほしいという意味でもない。集団への所属から自由な存在になってほしいということである。無名性の多面性ゆえに、「それからの瑯壬生」の受け止め方は少々ずれている。

 もう一つのテーマは、野田が近年一貫して取り組んできた戦争である。この芝居では、以下の二つの公理を前提としている。

(1)この世界から戦争がなくなれば恋する二人は暮らしていける(平の瑯壬生が「でも本当に僕が愁里愛と暮らせる日が来るのかい。」と問うと、それからの愁里愛は「来るわ。この世から戦が消えた日、私があなたに手紙を送る。」と答える)。

(2)戦争は永遠に終わることはない(「それからの瑯壬生」は「戦争が終わった日に、戦争は終わらない」と語る)。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        

戦争は源平の合戦でさえも爆弾とマシンガンの爆音で表現される。源平の合戦が終わり、平家が滅びた後、源頼朝はスターリンに通じる「ファッショ的な為政者」として登場し、権力をふるう。捉えられた平氏の兵士は、「距離にすれば千里。そして、時間にすれば千年。」とされる滑野(すべりの→すべりあ=シベリア)に送られ、極寒のなか労働を強いられる。一兵卒として源平合戦に志願した「それからの瑯壬生」もその中にいて、寒さと飢えにより命を落とす。

無名の存在ではなく名前のある存在として生きたい、戦争はなくなってほしいのに戦争はなくならない。最後の場面はこの二つのテーマが凝縮され絡み合い、感動的な幕切れとなる。有名でも無名でもないあり方とはどういうことなのだろうか。戦争がなくなっていないまさにこの世界をどう生きればいいのだろうか。問いかけは重い。 

●キャスティングの妙

以上のような明確な構造をもつ戯曲、キャスティングの妙、俳優たちの精緻なパフォーマンスが相まって、感動が生まれる。

野田の芝居ではよくある、一人の俳優が複数の役柄を演じているのも効果的である。羽野晶紀は、瑯壬生の溺愛母、愁里愛の生母、万人の「母」である尼マザーッテレルサと、三人の母親役を一人で演じる。橋本さとしは、源義仲、法皇、源頼朝、平の嘘仮威(こけおどし)と権威ある者四役を演じる。一人の俳優が複数の役柄を演じることにより、「母なるもの」「権威ある者」の共通性が浮かび上がり、戯曲の構造を強化する。竹中直人は、権力者平清盛、そして清盛酷似の一兵卒、平凡太郎を演じ、有名性と無名性の対照を際立たせる。

 若い瑯壬生愁里愛の志尊淳と広瀬すずは、「それからの瑯壬生」と「それからの愁里愛」の上川隆也と松たか子と対照されることにより、二人の未熟さ、初々しさが際立ってくる。現代を生きる観客は、若い瑯壬生と愁里愛を見守る「それからの瑯壬生」「それからの愁里愛」の二重性を通して、物語を俯瞰的に見ることができる。クイーンの音楽は、時間と空間を越えた物語展開を、うまくラッピングし、統一感をもたせている。

※大阪公演は、東京公演、ロンドン公演の後、2022107日~1016日に新歌舞伎座で上演された。その後、10月下旬に台北公演。

※参考文献 野田秀樹,2022,『Q/フェイクスピア』新潮社.