モナ・レノン

モナ・レノン
モナ・レノン(2003年研修先のリヴァプールにて撮影)

2013年9月22日日曜日

「あまちゃん」コラム~メディア論点に、音楽社会学的に(2)

「あまちゃん」はなぜ「アキ」なのか


劇場のキャパシティは200人くらいだっただろうか。小劇場の客席らしく、椅子席ではない。靴を脱いで入り口でもらったビニール袋に靴を入れ、靴を自分で持ち、床に座って観劇するというスタイルだ。客席の真ん中に太い柱があり、ステージが見にくいことこの上ない。扇町ミュージアムスクエアはそんな劇場だった。

扇町ミュージアムスクエアは1985年に開館した。ちょうどその頃、大阪では小劇場がブームとなり、劇団☆新感線、南河内万歳一座、リリパット・アーミーなどが人気を集めていた。1981年に結成された劇団☆新感線は、当初はつかこうへい作品を上演していたが、しだいにオリジナル作品による上演も増え、1984年の「グッバイミスターつかこうへい!」公演を最後に、完全にオリジナル作品を上演する劇団へとステップアップした。そんな時、扇町ミュージアムスクエアが開館したのだ。

1988年夏「宇宙防衛軍ヒデマロ」を当劇場で観た。この時点で新感線の看板男優は古田新太であり、羽野アキがアイドル的な看板女優になろうとしていた。巨大な一物をもつ古田新太がアイドルのアキ(「ナニワのキョンキョン」と言われていた)を下ネタで攻めるという捧腹絶倒のロック芝居で、東京の小劇場系劇団にはない、「おバカ」なエネルギーに溢れ、会場は熱気に包まれていた(羽野アキ=晶紀は後に狂言師和泉元彌と結婚)。

「古田新太がアイドルのアキを攻める」という構図は、ドラマ『あまちゃん』の構図と同じである。ドラマでは古田新太演じる芸能事務所社長、通称「太巻」こと荒巻太一が、アキ親子と対立するという構図になっている。芸能界の荒巻とアキ親子の対立が横軸とすれば、アキとその母、祖母の関係は縦軸であり、この縦軸と横軸が巧みに絡み合いながら半年間のドラマは進行する。

さて、こうしてドラマの主人公の名前は「アキ」以外にはないということになる。となると、キョンキョン小泉今日子が演じる母親の名前は「春子」、祖母の名前は「夏」と自ずと決まる。四季の中で冬だけが欠けている。

四季の中で冬が欠けていることで知られているのが「上を向いて歩こう」である。思い出す「春の日」「夏の日」「秋の日」はあっても「冬の日」はない。震災からの復興を応援するという意味において『あまちゃん』と「上を向いて歩こう」は似た位置にある。「上を向いて歩こう」は1961年に発表され、1963年に世界的なヒット曲となった。ドラマの中でしばしば挿入された「いつでも夢を」は1962年のレコード大賞受賞曲で「上を向いて歩こう」に挟まれている。

以上が『あまちゃん』親子三代の名前誕生のいきさつである。もちろん、これは筆者の妄想であるが、妄想も「上を向いて歩こう」にまで至ると、ジグゾーパズルの最後のピースがはまった時のような快感がある。そのジグゾーパズルは、私ひとりの妄想パズルであるにもかかわらず、である。言いたいのは、ドラマ『あまちゃん』は、視聴者のこうした妄想を掻き立てるようにできているということである。

「あまちゃん」コラム~メディア論点に、音楽社会学的に(1)

震災犠牲者への惜別の歌としての「潮騒のメモリー」




「波を連想させる曲、別れの歌はかけませんでした。かけられませんでした。」
東北地方のラジオ局で、震災後の音楽の選曲について尋ねたところ、どこの局でもこのような言葉が返ってきた(私は震災時にラジオ局が流した音楽について研究をしている)。

ドラマ『あまちゃん』の中でも、震災直後は、映画『潮騒のメモリー』リメイク版のヒロイン天野アキが歌った主題歌「潮騒のメモリー」は、放送自粛となった。「寄せては返す波のように」という歌詞が含まれるこの曲は、被災者の心情を思えば、とても放送で流せるものではなかったのだ。ラジオの現場でも、通常の選曲をするようになったという。震災から半年あるいは1年経ったあたりからだという。 

「潮騒のメモリー」は、ドラマの中では、1986年に封切られた鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)主演の映画の主題歌で、鈴鹿があまりにも歌が下手だったために、天野春子(小泉今日子)が声の影武者として録音して大ヒットしたという、いわくつきの歌である。その曲を北三陸市のご当地アイドルとなった天野アキと足立ユイが、北三陸鉄道のお座敷列車や「あまカフェ」で歌った。それらは震災前の愉快で盛り上がったシーンだった。

この曲は、いかにも80年代のアイドルの曲らしく作られている。70年代から80年代をリアルタイムで過ごした人なら、高田みづえ「潮騒のメロディー」(1979年)、「私はピアノ」(1980年)、ペドロ&カプリシャス「ジョニーへの伝言」(1973年)、松田聖子「小麦色のマーメイド」(1982年)などを容易に連想することができる。

さまざまな歌の断片をつなぎ合わせたようなコラージュ風の作りである上に、「1000円返して」「北へ行くのね ここも北なのに」などふざけたフレーズもあり、いかにも軽いアイドルソングとして聞けるようになっている。脚本の宮藤官九郎が「5分で作った」「何も考えずに作った」とされ、こうしたイメージを補強する結果となっている。

「シュール」な歌詞だと評されることもある。確かに、いろいろなイメージの切り貼りなのだから、そのように取られるのは仕方ない。しかし、この曲を嘗めてはいけない。曲の1番は突然の震災でこの世を去らざるを得なかった人の立場で、2番は残された人の立場で歌われているとして聴くと、どのように聞こえてくるだろうか。

この理不尽な別れに正面から向き合った歌としてしか聞けなくなる。「三途の川のマーメイド」も納得がいく。クドカンは正確には「5分で作った」のではなく「5分ぐらいで書いた感じがする歌詞にしようと思った」と語っている(NHKドラマ・ガイド あまちゃん part2p.42)。考え抜かれた歌詞にちがいない。
 
「潮騒のメモリー」は、80年代風の能天気なアイドルソングであると同時に、震災から2年が経った今だからこそ歌える、震災犠牲者への惜別の歌なのである。RCサクセション「雨上がりの夜空」(1980年)に匹敵するダブル・ミーニングの歌である。